ピアノと私と天才の思い出
2020年に入ってから、
今私が狂ったように取り組んでいるのは、ピアノである。
今、20年の時を経てヘッタクソながらも一人でレンタルスタジオにこもってピアノを弾くと・・・本当にかいか〜ん。
聴かせる人も、発表会の予定もないけど、ただただ鍵盤を叩いているのが楽しすぎる(一人カラオケ的な愉悦)。
そして、若い頃にいい音楽にワケが分からないなりにも触れていれば、その時に培った「深く感じられる能力」は一生もの。
大人になってからも、こんなにも喜びを得られるものなのだと実感している。
(スポーツでもなんでも、若い頃に何かに没頭することってほんっとうに大事だな!と今になって痛感)
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そういえば私、ピアノが大好きだった。中学生まで。
特にショパンとドビュッシーが好きで、自分でうっとりと弾いてましたよ。
ショパンに至っては、ハマり過ぎてアルバイト代を貯めてパリまで墓を見に行ったくらい。

相手は故人、よって愛情表現は墓参り
しかし高校生になって、ふと「大学は音楽系にしようかな」と先生に言ったところから、それはパタリと変わった。
多分、それまでは本当に「普通のお稽古」として楽しく好き放題やっていただけなのに、急に受験を見越したレッスンになり、・・・しかも私には、今思えば、受験のピアノが本当に向いていなかった。
具体的にいうと、ペダルを踏んでごまかせる曲はまあ弾けるけど、バッハやモーツァルトやベートーベン(ほとんどじゃねえかw)など誤魔化しが効かない曲が、弾けない。というか、とてもヘタ。
( ´_ゝ`)
今思えば、それってそもそも基礎がなってないって話よね。
だからそれまでは「自分はそれなりに上手いかも♪」とカンチガイできていたのに、初めて真のピアノの世界に入ってからは、「あれ、私のピアノ、下手すぎ・・・?」と自分に疑問を抱くようになり、そのまま自信が持てないまま受験に突入した。
そしてそんなに演奏レベルの高くない大学に、なんとか入学。
そこで、レベルの違う天才に出会う。

その時の私はまるで「アマデウス」のモーツァルトに出会ったサリエリ級の衝撃
その人は、講堂の端っこまでキラキラした粒の音を響かせられる人で、しかもそれほど熱心に練習をしていなかった。
しかもその人は、「クラシックピアノは楽譜通りなのだから、弾けて当たり前」ということで、在学中はジャズや複雑なコードの即興演奏やバンド、電子音楽に夢中だった。
で、そういうレベルの違う天才に出会うと、どうなるかというと、
その人の才能に感服して、自分はプレイヤーであることから降りるのだった。

あっちゅう間に演る側から見る側へwww
絶望して辞めるとか、勝負に負けて舞台から降りるというよりは、突出した才能に出会うと人間、自然にそうなるものだ。
いや、本当は、どんなことがあっても自分の愛したものを自分のペースでやり抜ける人こそが本物の才能の持ち主で、私にはそういう才能すらなかったということなのだけれど。
さらに時代は90年代後半ということもあり、洋邦楽ともにあらゆるアンダーグラウンド・シーンの芳醇な音楽が盛り上がっていたので、それ以来私は、クラシック音楽は忘れてしまったということだ。
(大学にまで入れてくれたのに、親よ本当にごめんなさい)
( ´_ゝ`)
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とにかく、そんなこんなであの頃クラシックピアノはぷっつりと辞めてしまった私だったが、今、めっちゃ楽しい。
ありがとうお父さんお母さん。( ´_ゝ`)
そして、若い頃にみた強烈な光とは、その後の人生もふとした瞬間にずーーっと思い出せる(どころかさらに記憶の中で色濃くなっていく)ものなんですね。あの天才の光。

天才再登場
皆さんにも、「隣人のふとした輝きに当てられて、その輝きが忘れられない事件となった」経験って、ありませんか?
真の才能は、事件である。
(おしまい)
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その時の私はまるで「アマデウス」のモーツァルトに出会ったサリエリ級の衝撃
でしたよ貴方も