「散らかった家」と「ゴミ屋敷」の違い
「散らかった家」と「ゴミ屋敷」の境目とは?
(前々回からのエントリー「日常の隣にある狂気〜」のシリーズです)
嫌だと感じる散らかり度合いは人それぞれ違うので一概には言えないが(とある友人は中野ブロードウェイは汚くて嫌だと言っていたが、私にとってはゴチャゴチャしていて楽しかったりする)、
その場所が、活気があって開かれた空間であるかどうか
ここが重要なんではないでしょうか。
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例えば、知り合いの社長さんに、かなりとっ散らかったジイさんがいるのだけれど、
彼の会社は、いつも物が多くてぐっちゃぐちゃ。
でも・・・彼の会社はとても潤っている。
社員さんたちの動きもよく、うまく回っている会社の感じが伝わってくる。
そのためか、なぜかぐっちゃぐちゃの部屋であっても、不思議と埃をかぶった不潔な感じが全くない。
言ってみれば「活気のある空間」。
綺麗だろうが多少汚かろうが、経済効果を生んでいる人や場所には優秀な人が集まり、停滞しないで物事がぐるぐる回る。
人々の活力がまわっていれば、散らかっていようとも、そこは所謂「ゴミ屋敷」では無くなるのだ。
(スピリチュアルな言い方をすれば「気がいい」って感じかしら。)
一方、ホンモノのゴミ屋敷のほうですが。
たいがいのゴミ屋敷には、老人が1人で住んでいるケースが多いと思う。
まれに40〜50代くらいの人もいるが、彼らは必ず1人。(中年息子と年老いた母のペアなど、「閉じた家庭」の場合もあるかもしれないけど。)
夫婦仲良くゴミ集め♡とかは、まず聞いたことがない。
まぁゴミ屋敷の住人が独りになってしまうまでには、元々の性格がクズすぎて家族が逃げ出したとか、色々あるかもしれないが・・・
中には真面目に生きてきたのに家族に先立たれたとか、病気や老化で意図せず孤独になっていく人もいるわよね。
それは自分も将来そうなる可能性もあるから(しかも私は片付けが超ヘタ)、経済活動だけは、どんなに細くとも続けて行かねばなーと思う次第でありました。
活気がある───つまり、そこが経済が回っている場所であるかどうか、ということでもあり。
経済効果をガンガンに生める人ならば、どんな変態ジジイだったとしても(故ジャ◯ー氏とかさ)、咎められずに孤独にもなりにくい。
孤独にさえならなければ、人もモノも埃を被ったり腐臭を放ったずに(つまりゴミ化せずに)いられるのではないでしょうか。
(おしまい)
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